今日の一枚。
西日さす阪急電車が通り過ぎていきました。
(マウスで左クリックしてご覧ください。)
前回あまり皆さんご存じない曲だったようですが、
今回は1976年1978年のヒット曲です。
1976年「青春時代」森田公一とトップギャラン
森田公一は当時数々のヒット曲を生み出す作曲家でしたが、
この曲は自らがバンドを組み歌うという異色の企画がはまり、
大ヒットしました。
作詞の阿久悠も作詞家としてヒットメーカーでした。
お二方とも懐かしい名前でしょ。
1978年「飛んでイスタンブール」庄野真代
異国情緒ただようこの曲覚えていますか?
庄野真代の圧倒的な歌唱力で大ヒットしましたね。
この曲筒美京平が作った曲なのですが、もともとは野口五郎の音質に合わせ
野口五郎の曲として作られました。
ところが仕上がり具合から、この曲は女性ボーカルの方が合うのではないかと
レコード化されることなくストックされていました。
1978年当時海外旅行ブームが始まる中、庄野真代の担当ディレクターが
海外を連想させる無国籍な曲を筒美京平に依頼し、このストックされていた
「飛んでイスタンブール」が庄野真代の曲として売り出されることになったそうです。
庄野のレコーディングには筒美が立会い、最初は「好きなように歌ってください」と言っていたが、次第に「ここはこうで、ここはこうで」と注文をつけ始めた。各々の歌手の良さを引き出すような曲作りが筒美の信条だったため、それが上手く表現されることにやはりこだわりがあるようだった。特に締めのフレーズ「夜だけのパラダイス」の「パラダイス」の歌い方が何度やり直しても筒美は気に入らなかったようで、最後には「もうそれでいいです」と筒美の方が諦めてしまったが、庄野は2021年のインタビューで「正解はいまでもわかりません。永遠の課題です」と語っている。
また、NHKで歌った時は「こんなジタンの空箱」という歌詞が『「ジタン」は(広告・宣伝放送を禁止した放送法83条1項及び日本放送協会定款51条に抵触する)たばこの商標である』という法律上の判断から「そんな煙草の空箱」と改変して歌ったというエピソードもあったそうです。(ネット記事より引用)
どちらも懐かしい曲ではなかったでしょうか。
それではまた...
西日さす阪急電車が通り過ぎていきました。
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前回あまり皆さんご存じない曲だったようですが、
今回は1976年1978年のヒット曲です。
1976年「青春時代」森田公一とトップギャラン
森田公一は当時数々のヒット曲を生み出す作曲家でしたが、
この曲は自らがバンドを組み歌うという異色の企画がはまり、
大ヒットしました。
作詞の阿久悠も作詞家としてヒットメーカーでした。
お二方とも懐かしい名前でしょ。
1978年「飛んでイスタンブール」庄野真代
異国情緒ただようこの曲覚えていますか?
庄野真代の圧倒的な歌唱力で大ヒットしましたね。
この曲筒美京平が作った曲なのですが、もともとは野口五郎の音質に合わせ
野口五郎の曲として作られました。
ところが仕上がり具合から、この曲は女性ボーカルの方が合うのではないかと
レコード化されることなくストックされていました。
1978年当時海外旅行ブームが始まる中、庄野真代の担当ディレクターが
海外を連想させる無国籍な曲を筒美京平に依頼し、このストックされていた
「飛んでイスタンブール」が庄野真代の曲として売り出されることになったそうです。
庄野のレコーディングには筒美が立会い、最初は「好きなように歌ってください」と言っていたが、次第に「ここはこうで、ここはこうで」と注文をつけ始めた。各々の歌手の良さを引き出すような曲作りが筒美の信条だったため、それが上手く表現されることにやはりこだわりがあるようだった。特に締めのフレーズ「夜だけのパラダイス」の「パラダイス」の歌い方が何度やり直しても筒美は気に入らなかったようで、最後には「もうそれでいいです」と筒美の方が諦めてしまったが、庄野は2021年のインタビューで「正解はいまでもわかりません。永遠の課題です」と語っている。
また、NHKで歌った時は「こんなジタンの空箱」という歌詞が『「ジタン」は(広告・宣伝放送を禁止した放送法83条1項及び日本放送協会定款51条に抵触する)たばこの商標である』という法律上の判断から「そんな煙草の空箱」と改変して歌ったというエピソードもあったそうです。(ネット記事より引用)
どちらも懐かしい曲ではなかったでしょうか。
それではまた...